メロス楽譜 M1059 第1刷
春のいそぎ
作曲者のことば
多田 武彦
 アルマ・マータ・クワイアから、51年ぶりに新曲の委嘱があった。アルマ・マータ・クワイアは、
ここ10年ほどの間に音楽的に急成長を遂げた上、大学時代の私の先輩・同輩・後輩のほか、音楽や文
学に造詣の深いメンバーが多い。
 どの詩人の詩を選ぼうかなと、色々な詩集を繙(ひもと)いていた矢先、先輩の桒(くわ)原昭さんから「詩人伊東静
雄先生の詩に作曲してみてはどうか」との助言を頂いた。
 私の郷里大阪に、府立住吉中学校(住吉高校)という有名進学校がある。昭和初期から伊東先生は
そこの教諭として、国語・国文法を教えておられ、またすでに日本の詩壇でも著明な詩人であった。
私は作曲を始めてから間もなくこのことを知り、先生の詩集を買い求めて、すでに十数篇の詩を選ん
でいた。
 ある時、住吉中学校出身の年長の知人から「平素伊東先生は、詩としての尊厳を大切にしたいの
で、出来れば作曲などしてほしくない、と仰っておられた」ことを聞かされた。私も伊東先生の真摯
なお気持ちが非常によく解るので、爾来作曲を見合わせてきた。
 しかし桒原先輩の助言以降、改めて詩集を繙くと、作曲をしたい感動を抑え難く、ご長女まき様の
ご指示を仰いだ。
 まき様は「確かに父は自分の詩に作曲してほしくない、と言っていた時期もありましたが、死後55
年も経過し、著作権の保護期間も過ぎておりますので、作曲を通じて多くのかたがたに、父の詩の良
さや特質を知って頂ければ亡父も喜び、我々にとっても誇らしいことですので、どうぞ……」とのお
許しを頂いた。
 改めて伊東静雄先生の第3詩集『春のいそぎ』から6篇を選び、季節的配列に基づいて作曲をした。
 個々の詩についての作曲途上での感慨は下記の通りである。
  第1曲 春の雪 大阪府堺市堺東に近い北三国ヶ丘町の、小高い丘の東方に反正天皇陵が俯
     瞰できる。この地域には珍しい春の雪に詩人は清涼な想いを馳せたのであろう。
  第2曲 春挽き  まき様が摘んできた早春の野の花にまつわる暖かい対話。
  第3曲 夏の終り 海水浴客もまばらになった海岸の夕景。掛け茶屋のお内儀の姿を通して、
     戦局が厳しくなり、往事の国民の増幅する不安感が綴られていく。
  第4曲 淀の河辺 この詩の淀の河辺散策の折の師弟愛には、心を打たれるものがある。
  第5曲 誕生日の即興歌 冬期の阪南地区は西北の季節風が強い。誕生祝いの花山茶花が、厳
      しい時節や気候をふと忘れさせる心あたたまる詩。
  第6曲 小曲 昭和20年3月の戦災に遭うまでは私は大阪市内にいた。早朝のまだ暗いう
     ちに目覚めて、二階の寝室の窓から家の前の道路を眺めていると、徹夜の運送の仕事
     を終えて帰路に着く数頭の牛と牛方が、ゆっくり歩いていく姿をよく見かけた。この
     詩は、あの時代の情景やリズムをほのぼのと思い起こさせてくれた。
 終わりに、この組曲の出版にご尽力くださったメロス楽譜西野一雄氏に、厚く御礼を申し上げる。
2008年10月